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広報・情報・資料

介護作文・フォトコンテスト

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平成29年度(第10回)受賞作品一覧

過去の受賞作品はこちら

写真

最優秀賞

「親子の絆」

(東京都 伊藤 学さん)

 
優秀賞

「夕映えにたたずむ」

(鹿児島県 内匠 一文さん)

優秀賞

「シンクロナイズド睡眠ing」

(千葉県 尾形 智恵美さん)

 
入選
「美味い野菜作っろ」

(石川県 吉田 洸太朗さん)

入選
「『驚いたっ!時代はかわったね〜!』」

(東京都 柿葉 優樹さん)

入選
「BIG SMILE」

(兵庫県 上野 晃平さん)

 
入選
「春眠、夢をシェア」

(岩手県 久保田 結さん)

入選
「ゆず湯」

(北海道 金子 智子さん)

入選
「今年も、Merry Xmas」

(千葉県 山口 登志子さん)

 
入選
「『秋の空』」

(広島県 松永 浩樹さん)

入選
「セツばあば迎えにきたよ。」

(福島県 齋藤 清さん)

入選
「風に乗った春の香り」

(愛知県 リヴェラ リムエルさん)

 
入選
「一汗かいた後は…やっぱりこれ!」

(茨城県 金井 智裕さん)

入選
「笑顔のプレゼント」

(埼玉県 清宮 幸雄さん)

入選
「ギター楽しい。」

(静岡県 山下 寿美江さん)

 
入選
「シャボン玉きれいね」

(福岡県 山本 亜由美さん)

入選
「青空の下で笑顔も満開!」

(岩手県 岩本 亜弥さん)

入選
「ベゴのつっつはこうやって搾んだよ!」

(岩手県 田澤 秀行さん)

 
入選
「師匠!参りました!」

(大阪府 徳永 傑さん)

入選
「君の目は」

(山口県 濱邉 貴文さん)

入選
「幼馴染との再会(二人で186 歳)」

(岡山県 池田 憲彦さん)

 
入選
「君といつまでも」

(石川県 岩下 佐智子さん)

入選
「デイサービスの笑顔番長」

(福岡県 皆川 徹さん)

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作文

最優秀賞

<一般部門>
「介護の仕事に思うこと」

(岩手県 本宮 富美子さん)

私が中学生の時、母が老人ホームで働き始めました。
元々病院で調理の仕事をしていたのですが、業者委託に伴い系列の老人ホームの介護職へ職種変えを勧められたのです。
母は経験のない介護の仕事に不安を感じ、次の仕事が決まるまでの間と思っていたようでした。
ところがしばらくすると、「仕事が楽しい、合ってる。」と言うようになり、結局退職するまで二十年程介護の仕事を続けました。
私が高校卒業後の進路に迷っていた時、母が「介護の現場では若い人達が生き生きと働いている。あなたもやってみたら?」と勧めてきました。
特にやりたい事もなかったし、何より母が変わった姿を見てきた事が決め手となったかもしれません。私は介護の専門学校へ入学しました。
そして無事介護福祉士の資格を取得し現在の職場に就職することができました。
沢山の出会い、そしていろいろな方々のお世話になりながら、もうすぐ介護の仕事に就いて丸二十年を迎えます。
この仕事が自分の天職なのかは未だに分かりませんが、何事にも飽きやすい性格の私が今まで続けてこられたのは、やはり介護の仕事に多少なりとも魅力を感じているからではないかなと思っています。
母は働きながら努力し介護福祉士の資格を取り、その後私も一緒に受験した介護支援専門員の試験は私より先に合格しました(ちなみに悔しくて私も次の年に何とか合格しました)。
なかなか合う仕事に恵まれず、職を転々としてきた母でしたが、最後に介護の仕事に就き、そのキャリアの中で輝いてこられた事は、母の人生においてとても大事な事だったと強く思います。
現在母は自身の母を介護しながら、とても明るく元気に毎日を送っています。
介護の仕事で得た自信が、その後の生き方にも表れているように思います。
私自身も結婚、出産を経て、それでもなお介護の仕事を続けてこられた事は、もちろん周りのサポートあっての事ですが、自分にとって大きな自信になっていると思います。
この仕事は教育の仕事とは違い未来を育む事ではないし、目に見える形で結果を残したり、ノルマを達成するといった成果が見えるような仕事ではないけれど、とても学ぶ事の多い、人間として生き方が磨かれる仕事だと思います。
私もいよいよ四十代に突入し、若い頃と比べると死生観というか、考え方が変わってきたように思います。
人はいつか必ず死ぬ。そんなあたり前の事が、以前より徐々に身近に、そしてより現実の事として感じられるようになってきました。
「人はいつか必ず死ぬ。だから今を大事に生きよう」
この考え方は介護の仕事をする上でも、もちろん自身の人生においても、とても大事な事ではないかなと思っています。
支えて下さっている方々への感謝の気持ちを忘れず、健康に気を付け、続けられる限り介護の仕事に就いていたいと思っています。
 
優秀賞

<一般部門>
「おらはお前さの事愛してる」

(千葉県 飯 栞さん)

このお話は入社当時の私と大好きだった一〇六歳のおばあちゃんのお話です。
いつでも元気いっぱい「職員さーーんっ」と大きな声で私達職員を呼ぶなまりの強いおばあちゃん。
背中を掻いてくれと言われ少しさすると「もっとボリボリ掻いてくれ」と言ったり、職員がお手伝いをすると「こんなに良くしてもらったのは初めてだ!死ぬまで忘れねぇ」と大袈裟に言ったり、ちょっと自分に不都合があると「ああーおっかね」と怒ってみたりと、とにかく一緒にいると毎日が楽しくあっという間に時間が過ぎた。
私はおばあちゃんが大好きすぎていつもおばあちゃんのお部屋に行っていた。
私を見つけるとベッドを指差し「ここさ座れ」と言うおばあちゃん。
そして「私、おばあちゃんの事大好きだよ」と言うと、「おらもお前さの事大好きだっ!」と返ってくるのがお決まりだった。
しかしあの日は私が大好きだよと伝えると、「おらはお前さの事愛してる」と言った。
何かいつもと違うな…とは思ってはいたが普通に業務へ戻った。
帰り際「また来るね!元気でいてね!」と声を掛けるといつもあまり言わない「ありがとね」と言い、私の手を握りながら微笑んだおばあちゃん。
私も「ありがとね」と伝えおばあちゃんを抱きしめた。その時私は自然と涙が溢れた。
次の日「おばあちゃんが亡くなりました。」と連絡が入る。
突然だった。
昨日までは元気で沢山お話したのに。
私は頭が真っ白になった。
昨日の「ありがとね」が最後の言葉となってしまった。
まだ話したい事、聞きたい事がいっぱいあった。正直なぜ私が居ない時に逝っちゃうんだ。ひどい。と思ったのが本音。
その時ナースさんが私に一言。
「おばあちゃんなりに考えた結果だと思うよ。
あなたが居る時に逝ったら大泣きするのが目に見えてる。
おばあちゃんの最後の優しさだと思うよ。おばあちゃんの為にも頑張りなさい」と。
私は涙が止まらなかった。今日元気でも明日何があるかわからない。これは健康な人にでも言える事です。
「明日会えるから明日でいいや。」
「また今度でいいや。」居なくなってからでは遅いんです。
私はおばあちゃんの事があってからは思った事はその日に伝えています。
この仕事をして改めて命の大切さ、いつ何があるかわからないという事を考えさせられました。
私は今でもあの日おばあちゃんに会いに行って良かった、「ありがとう」と伝えられて良かったと思います。
介護士として働いて三年。
おばあちゃんからの「おらはお前さの事愛してる」は、私が頑張れる心の支えです。
おばあちゃん見てるかな?私、介護士として毎日頑張ってるよ。
立派な介護士になるからね!
応援しててね!
大好きなおばあちゃん。
最後に、あの日言えなかったけど…。
「私もおばあちゃんの事愛してます。」
 
優秀賞

<一般部門>
「日だまりの100歳」

(埼玉県 川田 壽美江さん)

母の住む施設の夜間は皆ようやく眠りに就き、各居室から細い寝息が漏れ、職員はやっと一息つける頃。
そこへいきなり母の切羽詰まった泣き声と、助けを求める甲高い叫び声に当直員はすっ飛んでくる。ベッドの脇に据え置く夜用の簡易トイレへ移る際、手間どり失禁してしまったのだ。
職員の顔を見るなり一層泣きじゃくる。
若い女性は「大丈夫!心配しないでね」と、優しく慰めながら素早くシーツを外し、パジャマを着替えさせ床マットを丸め、トイレを外へ片づける。
ようやく安心して「ありがとう!」と穏やかになる。
母は施設へ入所し二年半経った。入所者の大半は自宅介護が困難になった車椅子、寝たきり、徘徊など介護度が高く認知症の人が多い。
入浴もほとんどが個浴で、入浴専門員は一年中半袖、短パン姿。
一人ずつエレベーターで移動中よく出会うが汗だくだ。
きつそうだなと自然に頭が下がる。
今、お風呂から上がりました、と告げ、母はさっぱりと上気した表情で私の前に現われる。
全て人の手を借りなければ前に進めない日々の暮らしがここに在る。
入所当時、慣れない不安感で情緒不安定に陥り、施設へ預けた葛藤に苛む一時期があった。
環境が整い介護プロのゆき届いた眼と心で接するやさしさに、母の心は徐々に解けて、ユニットの少人数グループでの生活に打ちとけて、この春、めでたく100才を達成。
心のこもったお祝いを受け、母はよろこびに浸った。
施設は近くちょくちょく会いに行くが、帰り際淋し気な様子を覗かせる事がある。
若いイケメン職員はその気配に気づくとさっと近づき、耳元で大きく「俺がついているから寂しくないよ。大丈夫だよ」と声かけしてくれる。
母はにっこり安心した様子で車椅子を方向転換させリビングへ入って行った。
ほっとし温かい心遣いにぐっと涙があふれる。
憂い顔で膝の痛みを堪えている姿を見た副施設長は、包みこむ笑顔で腰をかがめ母に代わって膝をさする。
「30回までは無料だけど、それ以上は一回10円だよ」とおどけてさすり続け「50回だけどどうかな」「あらッ痛みとれた。軽くなって調子がいいわ。」
急に晴れやかに嬉しそう。
まさに魔法の手である。
こんなおもいやりあふれる豊かなハート技で対応、日だまりの日常風景が展開されている。
職員いわく ―家族の方は面会に来てくれる、それだけで充分有難いです―。
何と大らかで明るい響きだろうか。施設の方向性は一貫して現場スタッフまでゆき届いていて、ここでは本当のやさしさの原点を知るおもいが胸にしみる。
超高齢化の大波が押し寄せ、福祉行政も難題を抱えて、施設受け入れ側、入所希望者共に厳しい現実を余儀なくされる現実がある。
けれど今、100才をこえた人生になお母の幸せを守られている介護があり、有難さを甘受でき、深い感謝の気持ちでいっぱいだ。
 
入選

<一般部門>
「ウサギ」

(千葉県 岡部 衣織さん)

大学で取った教職課程には、介護実習が必須科目として組み込まれていた。
介護実習は地域別に順次行われており、秋口に行われた集中授業で他の学生から聞いた話によると、どうやら私の実習が最後らしい。実際、その時すでにほとんどの学生が介護実習を終えていた。
どんな感じだったか、興味本位で聞いた私に、実習を終えた学生たちは口をそろえてこう言った。
「地獄だった」、と。
吐く息が白む12月。地獄の入り口は、清潔なにおいがした。
簡単な自己紹介と施設の案内で初日の半分が終わった。
1度の自己紹介で全員の名前を覚えられるほど私は賢くない。
入居者の部屋に続く廊下にポツリと置かれたケージに入ったウサギだけが妙に印象に残った。
掃除に食事の手伝い、歩行の補助など、実習期間の5日間はとても忙しかった。
日々の業務にはすぐ慣れたが、入居者の方との会話だけはどうしても慣れなかった。
やたらと警戒されたり、はたまた違う誰かに勘違いされて親しげに話しかけられたり、転びそうになった入居者の方にかけた「大丈夫ですか」の言葉が、「どうせ死ぬから心配しなくていい」になって返ってきたり……とどのつまり、入居者の方々とどう接していいのか私には分からなかったのである。
休憩時間にふと、集中講義で他の学生に聞いた「いるだけで気分が沈む」という言葉を思い出した。
4日目の朝、いつものようにたどりついた廊下のケージに、ウサギの姿はなかった。
実習がはじまってからはじめて触れた「死」は、驚くほどあっけない。
その日はちょうどクリスマス会が催されており、私はその準備に追われていた。
感傷にひたる暇もないくらい、その日も忙しかった。
クリスマス会は無事に終わり、部屋に戻る入居者を見ながら廊下の片隅で飼われていたウサギのことを思い出した。
空っぽのケージの前にしゃがみ込んでいると、一台の車いすが近づいてきた。
見上げた先にあった車輪は、いつもよりも重く、大きく見えた。
「かわいそうにねぇ」
自分はもうすぐ死ぬからそんなに気を使わなくていいと言ったその口から出てきたのは、あまりに普通のことだった。
「あらあら、泣かないの」と、私の手を包んだしわくちゃの手は、悲しいくらいに温かい。
あんなにも接しづらいと感じていたその人は、あまりに普通で、自分と同じ人間だった。
そのことに、どうして私は気付けずにいたのだろう。
いつか自分の祖父母や両親もこうして死を待つのだろうか。いつか私も、こうして。
「どうせ死ぬから」と笑う、彼女の感覚を、私はまだ知らない。
実際の「介護」は、イメージしていた「世話をする」や「面倒を見る」こととは違った。
人と話し、人の手を取り、命と向き合うことなのかもしれない。
「またあした」と約束したその人は、風邪が悪化したらしく、その後会うことは叶わなかった。
実習最終日。
言葉にならない感情をぐっと飲み込んで、ひとり、空っぽになったケージに手を合わせた。
 
入選

<一般部門>
「成長」

(栃木県 寺内 照美さん)

県立高校の普通科を卒業した私。
夢もなく、やりたい事もなく卒業を迎える頃、当時担任だった先生から福祉の仕事をしてみたらどうか、という話を頂きました。
当時の私からしてみたら全くといっていいほど未知の世界であり、お年寄りの方とどう接していいのかも分からない私が福祉の世界に入るという事に抵抗すら覚えました。
しかし、両親からの説得も強く、就職を決めました。
入職してから数ヶ月は、先輩方や入所されている方に沢山ご迷惑をかけていたことと思います。
そんなある日、入居者の方から「何でこの仕事についたの。楽しい、うれしい等の気持ちはあるの︖」との質問を投げかけられました。
ふと我にかえると、業務を覚える事に必死になり、いつの間にか入居者様との時間が減っている事に気付かされました。
その日から、私はいつもの自分のありのままの姿で入居者の方と接していこう、技術や知識も確かに大切なものではあるが、福祉の世界はそれだけではいけない、と思い直しました。
それから、利用者の方とのコミュニケーションを多くとり、合間で知識・技術習得を身につけました。
結果、利用者個々に合った個別ケアが提供でき、利用者様、家族様から「ありがとう。」という言葉を沢山頂く事ができました。
人生の大先輩方からのお礼の言葉というものは、私の中でとても重みがあり、私そのものの励みとなるものであり、仕事に従事していく中でも、とても喜びを感じられる瞬間です。
あの時、私に投げかけてくれた方は、残念ながらお亡くなりになってしまいましたが、最期を看取る事が出来ました。
お亡くなりになる前に私に最期の言葉を置いていってくれました。
それは、「立派になったね。今のあなたなら、皆、安心して最期まで任せてくれるはずだよ。今の気持ちを忘れちゃだめだよ。」と。
私は利用者様の前では絶対泣かない、と決めていましたが、気づいたら涙が溢れていました。
人対人。
介護という仕事は、とても難しく、奥深いものだと思いますが、それ故にとてもやり甲斐を感じられる事だと思います。
世間では敬遠されている介護の現場。
逆もみれば、人一倍やり甲斐を見つけられます。
一人でも多く、こういった経験ができる仕事についてもらい、お年寄りの方や、身体が不自由な方が、過ごしやすい環境作りのお手伝いができる仲間が増えていけば、もっと明るい未来に繋がっていく事と思います。
 
入選

<一般部門>
「なくしもの」

(東京都 丹羽 太郎さん)

マキコさんの第一印象は「うわぁ、すごい眉間のシワ」(ごめんなさい︕)でした。
物腰柔らかで優しげで、でもどこか落ち着かない彼女。
口癖は「ちょっとごめんね、あたしね、財布なくしたみたいなんだけど」
「前にここでね、着物持ってかれちゃったのよ」こんな調子で終始、不安げ。
別の利用日。
お迎え時に私と娘さんとで「忘れ物は大丈夫」その場では安心するも、昼頃には「ごめんなさいあたし、鍵無くしちゃったみたい」と。
「いいですとも、一緒に探しましょう。」
また別の日。
そろそろかしら。あ、来た来た、私を探してる。
「あなた朝のドライバーさんよね、もう一個のカバン、どこやったかしら︖」
お答えすると、明るい顔で席に戻る彼女。
少ししてまた、不安になっても、上手にお答えしますからね。どうぞご安心を。
そんな日々が続きました。
私はいつも何かなくす彼女の側で、不安がらぬよう、「お答え」を繰り返しました。
我ながらよくないな、丁寧なようでドライだなと、思いつつ。
それでも、変わらず接し続け、いつのまにか数ヶ月が経過しました。
ある日の帰り。送迎の車内、何度も探し物を尋ねる彼女、お答えする私。
慣れたもので、無意識にすらすら言葉が出ます。
お住まいに到着。
「今日もお変わりありませんでした」そう告げる私に、
娘さんが「なくなったんですよ」と一言。
え︖ほんとに何かなくしたかな︖ウチで何か、見落としたかしら︖
不安げな私に娘さん、額を指差して続ける。
「ここのシワ。何だか、よくして下さるから、楽しいみたい。ありがとうございます」
意外なお褒めの言葉、嬉しかった。
でも、変化に気づけなかったベテランの笑顔は強張りました。 確かに。
なくしものの問いかけは変わらずとも、表情が、足取りが、来た頃とは全然違うじゃないか︕
最近では、他の不安げなお客さんの相談にも乗ってくれているし。
それを何が、「お変わりありませんでした」だ‥。
後日、ドライブからの帰り。施設に戻った時、彼女に肩を叩かれました。
なんでしょ︖と伺うと、「ごめんね、ありがとね。忘れちゃうから、言っとくわ。
あなたは皆の言うこと、そっぽ向かないから。始終気を張って、疲れるでしょ︖」
‥しばらく、動けませんでした。
こっちが彼女を見ていたつもりが、とんでもない。
介護に携わり、はや幾年。慣れきって、忘れていた、自分の所作。
彼女は見続けてくれていたんです。
もちろん、できてないことも沢山ありますが。
なくしものを見つけたような、そんな気がしました。
それからまた月日が流れ、今日。
実は他にも出てきたものがあるんですが、彼女にもご家族にも伝えられてないんです。
突然のお褒めを頂いた日に撮った写真。私の顔は眉間どころか全部がシワシワゆるゆる。
恥ずかしくて、とても言えない︕
 
佳作

<学生部門>
「認知症おばあちゃんの忘れない思い出」

(山形県 渡邊 唯さん)

私の祖母は、もうすぐ90歳になります。
長生きでなによりですが、アルツハイマーを患う認知症高齢者です。
祖母の口癖は「ゆいちゃんが、まだ学校から帰ってこない、孫のゆいちゃんが小学校から帰ってこない」と心配しています。
両親が共働きのゆいちゃんは、幼稚園や小学校から帰ってきたら、夕方までお家でおばあちゃんと二人きりです。
おばあちゃんの運転する自転車の後ろに乗って公園に行きます。
おばあちゃんと一緒に水戸黄門を観ます。
おばあちゃんとゆいちゃんはいつも一緒です。
祖母と同居していた私たち家族が介護生活を始めたのは、今から10年ほど前です。
最初の数年は週に数回のデイサービスを利用するのみでした。
しかし最近は徘徊が目立つようになったり、入浴補助が必要になったり、紙おむつで生活したりと家族だけの介護が厳しくなり、介護老人保健施設で暮らすことになりました。
認知症の祖母と介護職に就く姉をもつ私がこのような生活をして感じたことは、「介護はシェアできる」ということです。
そして、「介護をシェアしてほしい」と付け加えておきます。
前者のシェアとは、支援面を指します。
デイサービスや訪問介護で介護士の助けを借りることができるし、家族の相談や悩みを共有し、相談できるケアマネもいます。
専門知識をもつ介護士と協力しながら介護はできるのです。
そして後者のシェアとは、認知面を指します。認知症高齢者は徘徊をします。
家族に向かって怒鳴ったりします。
時に家族も逆上して口論になることがあります。
こうした症状があることを介護に縁がない人や地域の人に知ってほしいと思います。
近所を徘徊していたら連絡してあげてください。喧嘩していても虐待とは限りません。
こうした生活をしている家庭があることを知ってもらえるだけで、介護している家族は気が楽になると思います。
私たちのような生活をする家族は、祖母に関わってくれるすべての介護士の皆さんに支えられて介護生活ができます。
そして近所の皆さんの「最近、おばあちゃんどう︖」という気遣いや「おばあちゃん歩いてるの見たよ」という助けも大きな支えになります。
介護士さん、地域の皆さんがいるから私たちは大丈夫だ、頑張ろうと思えるのです。
だから、どんなに介護が大変で睡眠が少ない日が続いても、家族のことが分からなくなっても、10年以上ゆいちゃんが小さいままでも、私にとって祖母は大切な家族だと思えるのです。
介護生活をしているすべての家族に、そしてまだ介護生活をしたことのない家族にも、私たち家族の認知症介護のお話しを通し、共感をもらえたり、認知症のリアルを知ってもらえたら、うれしい限りです。
祖母の中には、今でもあの小さなおばあちゃん子のゆいちゃんがいます。
家族さえも認識できなくなった祖母が今でも覚えているのがゆいちゃんなのです。
おばあちゃん、ゆいちゃんは21歳になりました。
 
奨励賞

<学生部門>
「あなたのおかげで」

(千葉県 小此内 寧々さん)

この夏、私は初めての介護実習に行った。
それ迄は、祖父母と共に暮らしたことも、老人ホームにボランティア等で行った経験も無かった。
実習初日、食前に利用者さんのAさんに「エプロンをお付けしていいでしょうか」と聞き、承諾を得てエプロンを付けようとすると、「ちゃんとやりなさいよ︕」と大きな声でAさんに言われ、驚いた。
何度丁寧に説明しても理解してもらえず、私はエプロンを持ったまま立ち尽くしてしまった。すると、周りの利用者さんが、困っている私に気付いて「(Aさんの)気分が落ち着いてからもう一回してみな」と優しくアドバイスをして下さった。
Aさんは重度の認知症があり、私の顔も覚えられない。会う度に「あんた誰︖」と聞かれるので、介助する際には必ず名乗って始めるのだが、その時も、「あんたは悪い人」、「あんたは怖い人」、「いやだよ、馬鹿だね」と、言われてしまい、どうしたら良いのか分からなかった。
Aさんは、私の前では笑顔を一切見せず、私は、Aさんの気持ちを、理解することが難しかった。
私は次第に、Aさんに近づくのが怖くなり、挨拶するときの笑顔さえ歪んでしまうようになった。
しかし、何日か経って、こんなことで怖がっていてはいけないと、自分をもう一度奮い立たせ、Aさんから逃げないで、笑顔で話し、介助しようと決心した。
しかし、私がどんなに笑顔で話しかけても、Aさんは全く笑わず、また怒らせてしまうことの方が多かった。
実習期間が半分を過ぎたある日、私は入浴介助実習で、少し緊張しながらAさんの体を洗っていた。
すると、黙っていたAさんが急に、「あんた」と私に声を掛けてきた。私が返事をしてAさんの顔を見ると、思った通りAさんの表情は硬い。
下手だから、注意されるのは当たり前だ、と思っていると、「あんたお湯のかけ方上手いわね」と、早口で言われた。
私はその言葉を確かに聞き取れたが、「えっ︖︕」と思わず聞き返してしまった。
「気持ちいいわよ」。「ありがとう」。
いろんな感情が一気に込み上げてきて、涙が出そうになったが、ここで私が泣いたら、Aさんも、まわりの利用者さんも驚いてしまう。ぐっとこらえて、Aさんの顔を見て、「ありがとうございます︕」と最高の笑顔で応えた。Aさんには、笑顔はなかった。
しかし、シャワーが終わると、もう一度、「ありがとう」と言って下さった。
私は、Aさんのおかげで、自分の無力さを知り、Aさんのおかげで、自分をもう一度、奮い立たせられた。
実習の前半、一緒にいるのが怖かったのに、後半は、Aさんに支えられていた。
他の利用者さんに怒られても、笑顔を見られなくても、Aさんのおかげで、自分の介助の仕方を見直しながら、利用者さんお一人ひとりに向き合う勇気を持てた。
Aさん、他の利用者さん、ありがとうございました。将来、Aさんを、皆さんを笑顔にできるような、安心をお届けする介護福祉士になります。
 
奨励賞

<学生部門>
「あの日のぬくもりいつまでも」

(新潟県 今井 泉里さん)

「こんなことさなって情けねぇ。申し訳ねぇ・・・。」
病気になる前、心の内を表に出さない祖父が涙を流しながら言った。
「泣ぐな。大丈夫だはげ・・・。」私はそう言いながら祖父の肩を抱く。
その肩から感じられる温もりが、幼き日の私にくれたものと同じであることが信じられなかった。
昔、私をおぶっていた大きな背中より弱々しく、不安に満ちていたからであろうか。
小さい頃、同居の祖父母から世話をしてもらうのが日常であった。
私は祖父が大好きで、記憶を遡るといつも隣に祖父の姿がある。
保育園で祖父から離れたくないと泣く私に困った顔で手を振り去っていく祖父。
お遊戯会で恥ずかしくなり座り込んでしまった時に残念がる祖父。
怪我をした時はいつも手当てをしてくれた祖父。
「またか。」と言いながら薬を塗ってくれる祖父との時間は私にとって安心できる時間だった。
祖父の治療は不思議とすぐに良くなった。
車の運転が好きだった祖父。
決して上手な運転とは言えなかったが両親が忙しかったため、習い事、中学からは部活、第一志望の高校の入学試験の送迎をお願いした。
特に印象に残っているのは東日本大震災の時のこと。
私は学校が休みで出かけていた。
地震が起きた時、祖父は真っ先に私がいるであろう場所に駆けつけたらしい。
電話が通じない中、私は近くにいた友達の家に避難していた。
その場に私がいないと聞くと私が行きそうなところに出向き、探していたと言う。
嵐の時も、災害が起きた日もどこでも連れて行ってくれた。迎えに来てくれた。
免許を返納すると決めたのは祖父だったらしい。
どんな思いで告げたのかは分からないが祖父との時間が一つ、過去のものとなってしまうことに私も寂しさを感じた。
しかし祖父のおかげで私らしく生きていることは確かである。感謝してもしきれない。
祖父の兄弟が相次いで亡くなってからだろうか、祖父の生活が変わって行ったのは。
始めは家族全員、現実から目を背けていた。
あの強かな祖父が変わることが信じられなかった。
特に妻である祖母と息子である父は祖父の状態を正面から受け入れようとはしなかった。
その状態になってから月日が経った今でもまだ、現実を受け入れられないでいるのかもしれない。
しかし、何も変わらない温かい生活があると私は思っている。
私たち家族の気持ち、生活は何一つ変わらないのだ。
人は病気に罹り、障がいを負ったとき全てを失ってしまうのか。
私は失うだけでなく何かが残って、何かを手に入れられるものだと考える。祖父は病気で記憶や自尊心、身体機能などを失った。
しかし、今までと変わらぬ場所で感謝と愛情、尊敬の念を私たちは祖父の心に残したい。
そして祖父が最期まで「最高の人生であった。」と言えるよう、祖父がくれたあの強かな温もりを今度は私が祖父に送りたい。私は病気と闘う祖父の弱々しくなったが、あの頃と変わらぬ温もりのある肩を支え、家族と共に最期まで応援していきたい。

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