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広報・情報・資料

介護作文・フォトコンテスト

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平成28年度(第9回)受賞作品一覧

過去の受賞作品はこちら

写真

最優秀賞

「コスモス〜ゆるやかな時間〜」

(福岡県 堀川 彩子さん)

 
優秀賞

「幸せな爆笑」

(東京都 中田 晃さん)

優秀賞

「歓喜」

(三重県 吉野 聖夫さん)

 
入選
「思いはいっしょ」

(北海道 今 達也さん)

入選
「卒業名簿」

(千葉県 山口 登志子さん)

入選
「青春まっさかり」

(静岡県 諸田 耕治さん)

 
入選
「結びの一番!!」

(千葉県 中村 健二さん)

入選
「手紙」

(北海道 佐久間 竜太さん)

入選
「初春の一驚」

(東京都 伊藤 学さん)

 
入選
「お茶目なひいお婆ちゃんとにらめっこ」

(兵庫県 野村 礼さん)

入選
「『ねえ おばあちゃん』『なんだい』」

(群馬県 木村 利也さん)

入選
「おはよう、まだねむい」

(兵庫県 山下 智子さん)

 
入選
「また来てね」

(広島県 品川 佳裕さん)

入選
「心開く瞬間」

(兵庫県 岸田 昌代さん)

入選
「午後のひととき」

(群馬県 特別養護老人ホーム鶴生田園さん)

 
入選
「まだまだ〜」

(広島県 上原 哲也さん)

入選
「幸せを運ぶ虹」

(岩手県 大清水 美幸さん)

入選
「幸よ、舞い降りろ〜」

(岩手県 和蛇田 公子さん)

 
入選
「誰とお話しする〜」

(大分県 市原 弘資さん)

入選
「ヒャー!おっかねぇ、負けねぇどー!!」

(千葉県 佐藤 美菜さん)

入選
「どこかなぁ〜」

(大分県 榎田 俊通さん)

 
入選
「こっちへおいで」

(埼玉県 馬場 このみさん)

入選
「あなたの二の腕で休ませて。」

(静岡県 小泉 勝彦さん)

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作文

最優秀賞

<一般部門>
「母はスパルタ介護人」

(徳島県 渡邊 惠子さん)

あれは、父が還暦を過ぎたばかりの頃だった。
ゴルフ中に突然倒れたと連絡が入り、母と私は急いで病院に駆け付けた。そして集中治療室で昏睡状態の父の横でドクターが言った。
「脳出血です。命は何とか取り留めましたが、右半身と言語に重い障がいが残ると思います。たぶん、普通の日常生活が出来るようになるのは難しいでしょう」
三人の間でしばらく沈黙が流れた後、母が口火を切った。
「先生、『たぶん』ということは、回復する可能性がゼロではないってことなんですよね?」
母は、意を決したように立ち上がった。
それから二週間ほど経ち、父の身体が動かせるようになってから、リハビリセンターに移った。母は毎日センターに通いつめた。理学療法士さんの訓練が終わってから、母は父を車椅子に乗せ、父に語りかけながら院内や中庭を回った。そしてまったく喋ろうとしない父に、母は一冊の絵本を買ってきた。
「私はいつもお父さんに、『白鳥に成りそこねたアヒルを嫁にもらってやった』って言われたから、これから一日三回『みにくいあひるのこ』を読んでもらうからね」
母はそう言いながら、ページを開いて父に見せた。すると父は、左手で本を放り投げた。
母は仁王立ちになって、父を睨みつけた。
「じゃあ明日から、私はここに来ないからね」
父はしぶしぶ絵本を読み始めた。最初の頃は何を言ってるのかまったくわからなかった言葉も、そのうちいくつかの単語が聞き取れるようになり、二カ月経った頃には、たどたどしいが半分ほどわかるようになってきた。
病室で母は父の横でずっと話しかけ、質問の答えが返ってくるまで容赦しなかった。
「世界で一番美しいのはだ〜れ?もちろん私でしょ?『とし子』って言ってごらん?」
父は怒った顔をして、そっぽを向いた。
「ちゃんと『とし子』って、口で言って!」
すると父は、はっきりと答えた。
「そ・れ・は・ち・が・う」
その時、その場にいたドクターや介護士さんたちから一斉に拍手と笑いと歓声が上がった。
そして三カ月を過ぎた頃には、左手で杖を突いて、ゆっくりと歩けるまでに回復した。
父の退院後も母のスパルタ介護は続き、食事や歯磨き、トイレの時も、出来る限り自力でするように促した。気が短い父は、ある時、母に、「出て行け」と怒鳴ったことがあった。
私は固唾を呑んで見守っていると、
「ああ、いいよ。でも三億円くらい慰謝料くれたらの話だけどね」って、母はあっけらかんと笑った。
「あんなに暴言吐かれて、どうしてそんなにお父さんの世話ができるの?」
不思議がる私に、母はこう言った。
「介護される方は、する方より何倍も辛い思いをしているのよ」って。私はその時、父が倒れてから初めての母の涙を見た。
 
優秀賞

<一般部門>
「ちいさい「つ」の物語」

(兵庫県 宣 丹さん)

日本語のひらがなの中で、私が一番好きなのは「つ」です。ちいさい「っ」のほうです。
何故かというと、あの方に出会ったからなのです。
私はデイサービスで働いています。
中国人の私にとって、一番な課題は言葉の壁がある事です。なるべく日本人の発音をマネして、日本人らしい日本語を話すように努力しています。
八年前の夏、94歳の佐藤さんはデイサービスに来られました。昔は学校の先生で、真面目で、熱意がある方です。
ある日の朝、私は佐藤さんの隣に座って、挨拶しました。
「おはようございます。今日はいいお天気ですね。でも昨日は、お天気が悪かたし、あつかたですね」
「うん?ちょっと分かりにくいから、もう一回言ってくれる?」「はい」私はもう一回大きな声で繰り返しました。
そして佐藤さんは「はぁ、わかった。『お天気が良かた』じゃなくて、『よかったですよ』よ、小さい『っ』がありますよ。それと『あつかった』にも小さい『っ』があります。と指摘してくれました。
「小さい“っ”ですか、小さいから、つい省略してしまうのです。」と心の中に弁解していました。
ある日、利用者さんが少ない朝でした。
「ちょっと、センさん、私のそばにいらっしゃって」と佐藤さんから声かけてくれました。
「センさんは、中国の出身でしょう。いつも仕事を熱心に頑張ってるんですね。日本語もよく分るし」と佐藤さんが微笑みながら、話を続けています。
「でも、時々、小さい『っ』の時に、間隔をおかずにしゃべると、分かりにくい時があるわ」
「『っ』は小さいですけど、結構大役をやっていますよ」「日本人らしい日本語をしゃべりたいのであれば、省略せず、しっかり、小さい『っ』の発音してごらんなさいよ」
佐藤さんがニコッと笑っている目の中に、一瞬中国のおばあちゃんの顔が見えました。
「良かったら、私がいる時、5分間新聞を読む練習をしてみませんか?」
「えっ?いいですか?」突然の誘いでびっくりしました。
その日から、佐藤さんがデイにくる日に限って、5分間新聞を読む練習をしていました。
「慌てずに、ゆっくりと読んでごらん」
「そう、ちいさい『っ』の時、必ず間隔をおく事…」
いつの間にか、佐藤さんの隣に座るのは習慣になってきて、新聞の朗読も楽しくなってきました。
半年後、佐藤さんは自宅で転倒、入院しました。2ヶ月後、肺炎で亡くなりました。
もう一回佐藤さんに会いたい、もう一回佐藤さんにきびしく、やさしく言われたい。
その後、日本語をしゃべるたびに、意識をして、ちいさい「っ」の発音をしっかりするようになりました。
更に、介護の知識を学んでいて、三年後、介護福祉士の資格を取得しました。
これはすべて佐藤さんのおかげです。心より感謝しています。
これからも、ちいさい「っ」のように、ちいさいですが、しっかりと皆に役に立つように、コツコツと頑張っていきたいと思います。
 
優秀賞

<一般部門>
「私の宝物」

(岡山県 徳田 有美さん)

認知症になり、これ以上独居は限界という祖母が我が家に来た。私が丁度休職中だった時期でもあり、時間を持て余していた私が必然的に、祖母の介護担当となった。
祖母の当初の問題は、尿意、便意がわからないことだった。独居のときには、ナプキンを代用し、ナプキンの許容量を超えるくらいまで尿をしみこませていた。それを一人でこっそりナイロン袋に突っ込んで処理に、挙句、自宅は尿臭でプンプンだった。我が家に来て、まずは大きめの尿取りパッドを購入し、祖母がトイレで処理に困っているときには、私が行って、こっそり処理をした。そのうち、便も漏らすようになってきた。トイレに行って二十分もたっても出てこないときには、私がかけつけた。すると、祖母は便器を前に、汚してしまった衣服とパッドを見つめながら茫然と立っていた。それも恥ずかしいことではないように、笑って私は処理をした。
私達は一緒にお風呂にも入った。祖母の身体を流してあげる。すると、祖母が「有美さんの身体もすってあげる」と言い出す。祖母は私の背中をすりながら、「若い人の身体ゆうたら、やっぱりええね」と少し妬んだように言った。「おばあちゃんの身体じゃて、ええよ」というと、「ほんまかしら」と笑っていた。
買い物も行った。車いすを車に乗せて、二人でスーパーまで出かけた。「おばあちゃんに服を選んであげる」と言い、これが似合うと私が選んだ服を、「これは素敵じゃわ」と喜んでみせる祖母。その後、二人でソフトクリームを食べるのが恒例だった。
祖母は、認知があるなりに、私に気を遣っていたのだ。自分がこの子に無理をさせていると。だから、ある朝五時頃から起きだし、思いつめた顔をしてソファに座っていたのだ。
「よく考えた結果じゃから、真面目に聞かれぇ」祖母は、父と母に向かって言った。「私は、やっぱり、ここでやっかいになるより施設に行くわ。施設をあたってちょうでぇ」と。
両親は、祖母と何度も話し合ったが、祖母の意思が変わらなかったため、すぐに入居可能な施設を見つけてきた。そしてあっけなく、祖母は我が家を半年で去り、グループホームに入居してしまうことになった。
入居前日、二人でドライブに行った。帰りの車の中で、「有美さんも元気でおられぇよ」と、祖母が口火を切った。その瞬間、なぜだか、私の中から本音がぽろぽろと、そして涙がぽろぽろとあふれてきた。「おばあちゃん、寂しいわぁ。寂しいわぁ。」私はむせび泣いた。祖母は私から目線をそらし、窓の方を向いて言った。「あんたは宝のような子じゃ。あんたのような子は幸せにならんといけん子じゃ」
私を宝だと言ってくれた唯一の人。数年前永眠してしまったが、自宅で介護していた時期は夢の中を歩いているようなひとときだった。ゆっくりとしたひだまりの中を歩いているような至福の時間、最高に幸せだった。祖母よ、貴方こそが私の宝だった。
 
入選

<一般部門>
「広がる繋がる笑顔と元気」

(宮崎県 田中 亜希子さん)

初めて介護というものに触れたのは中学生の頃だろうか。学校のボランティア活動で近くの老人ホームを訪問したのを覚えている。
おじいちゃんおばあちゃんが喜んでくれ終始笑顔が溢れていたのがとても印象的だった。
そんな私が介護の仕事に就きたいと思い始めたのは、元々足の悪い祖母が高齢になり転倒を繰り返すようになってから。そんな祖母を見て「一緒にすんでいるわけでもそんなに近くに住んでいるわけでもないけれど、会った時くらい、一緒に出掛ける時くらい、出来る限りの介助をしてあげたい」そう思った。
当時、資格も経験もなかった私だが友人の紹介で介護施設に就職する事ができた。右も左もわからないまま飛び込んだ介護業界。私の介護に対しての考えがいかに浅はかだったか思い知らされる毎日だった。
認知症。その言葉は何度も耳にした事があるが現実は私の想像以上だった。秒刻みで同じ質問を繰り返される御利用者。食事が理解できず手掴みでご飯を混ぜる御利用者。便器の中へ手を入れ排泄物を掴み出そうとされる御利用者。帰宅願望のある御利用者は外に出ようとガラスが割れるのではというほど扉を叩く。教わりながらトイレの介助、食事介助、入浴介助。今までの私の日常とはかけ離れすぎていて不安と緊張と後悔、そんな感情でいつもいっぱいだった。正直「自分には向いてないんだ」と思ったこともあった。「もう辞めてしまおうか」と思った事もあった。辞めてしまうのは簡単。「辞めます」と言ってしまえばいいだけの事。なぜそうしなかったのか。何が私を思いとどまらせたのか。それは他でもない御利用者だった。
現状に慣れず肉体的にも精神的にも疲れ果てる業務。そんな中何気なく掛けられる御利用者からの一言。「あんたは優しいね」「ここの人はみんな親切じゃ」「ここに来るのだけが楽しみやとよ」「あなたが頑張ってるの私はちゃんと見てるよ」そんな一言一言に時には心休まり、時には励まされ、時には大笑いし、そしていつも前向きな気持ちと元気を与えてもらった。
まだまだベテランとは言えず介助も至らない所がある私。そんな私だけど、笑顔と元気だけは誰にも負けずにいたいと思う。「今日も元気だね」と言われればもっともっと元気でいようと思える。「あなたの声聞くだけで元気になるわ」と言われればもっともっと元気を与えようと思える。御利用者にたくさんの笑顔と元気をもらっている私だからたくさんの笑顔と元気をお返ししたい。介護の仕事をしていると色々な場面で御利用者に「ありがとう」と言われるが、こちらこそありがとう!!御利用者のおかげで私はこの仕事がとてもとても大好きだ。
 
入選

<一般部門>
「もらいあくび」

(大阪府 西川 正泰さん)

平成二十八年九月一日、僕はやっと祖母との約束を果たすことができた。
現在僕は特別養護老人ホームで介護職員として働いている。約七年前までは一般企業でデスクワークをしていた。そのころ祖母は神戸で一人暮らしをしており、認知症の症状もあって週に数回ホームヘルパーを利用していた。僕は月に二回ほど、休日に大阪から祖母に会いに行っていた。
祖母は同じことばかり言う。大抵僕の少年時代の話だ。同じ話を聞くことに飽きて祖母の若かりし頃の恋愛について聞くと、少し照れながらも答えてくれた。しかし気が付くと話はやはり僕の少年時代へと戻る。そして話が一段落すると「ヘルパーさんや娘、孫が会いに来てくれるのが今一番の楽しみ」と顔をくしゃくしゃにして笑った。
祖母は普段誰とも会わない日常を送っているから、たまに長時間の独演会をすると疲れるのだろう。話の途中でよくあくびをした。僕もあくびをする。もらいあくびをするゆったり流れる時間。僕にとって何よりも心休まる時間だった。
夕方になり僕が帰る際に祖母が必ずこう言った。「子どもを一人でもいいから作っときよ。年いってから一人は寂しいで。」僕は「分かった。子ども作るわ」と約束したが当時僕には妻どころか彼女もいなかった。
祖母の「ヘルパーさんや娘、孫が会いに来てくれるのが今一番の楽しみ」という言葉はやがて僕を介護業界へ進ませることとなる。高齢者の「楽しみ」になるヘルパーとはどんな仕事なのだろう?高齢者の「楽しみ」になりたくて僕は介護職員に転身する事を決めたのだ。ただ、介護業界に進むにあたって一つだけ壁があった。それは雑誌やネットなどを通じて流布する「介護職は給料が安いから妻や子どもを養っていけない」という言葉だ。悩んだ末、養っていけなくてもいいと思った。結婚も子どもも諦め、「約束を守れなくてごめんね」という祖母への罪悪感と「あばあちゃんのお陰で新しい道を見つけられたよ」という感謝の想いを持って僕は介護業界に入ったのだ。
それから間もなく祖母は他界した。僕は介護職員として経験を積み、介護福祉士の資格も取得して今はユニットリーダーの肩書きももらえるようになった。また、介護業界に入って三年ほど経ったころ、僕は同じ施設で働く職員と恋に落ちた。諦めていた結婚もできたのだ。妻がやりくり上手なのか、今のところお金に全く困らない生活を送っている。
そして平成二十八年九月一日、第一子が誕生した。僕は今、生まれたばかりの息子を抱きしめている。「第九回介護作文フォトコンテスト」の締切日である九月十六日までに生まれ、作文のネタを提供してくるあたり、なかなか親孝行の息子である。 夜勤が続き寝不足の僕があくびをする。息子も大きな口を開け、思い切りあくびをした。
 
入選

<一般部門>
「介護びより」

(千葉県 宇佐美 さくらさん)

私は有料老人ホームで働いている。
毎日本当に忙しい。膝から崩れ落ちる思いも何度も経験した。
私はよく考える。ロト6で6億円当たったら私はこの仕事を辞めるだろうか?
答えはNOだ。
私は続ける。きっといつまでも。
なぜなら介護ほど楽しい仕事を私は知らない。
その日は施設の利用者のAさん(94才)は朝から機嫌が悪そうだった。声をかけてもそっけなく食事もほとんど手をつけなかった。よくよく聞くと「もうすぐ自分の母親の命日なのに自分は車イスだし、体力もないしお墓参りに行きたくてもいけない事がくやしい!」と訴えた。
なるほど。私はすぐさま仲良しの介護タクシーの運ちゃんに相談し車イスで座位を長くとる事も出来ないAさんの為にリクライニングが出来る車イスを乗せれる車を手配してもらいお墓参りを計画した。久々の外出に緊張するAさんを横目に私は同じく施設の利用者のBさん(88才)に相談しAさんのお墓参りに着ていくブラウスを一緒に選んで欲しいとお願いした。Bさんは若い頃高島屋のマネキンを36年やっていた事もありセンスも良く突然のお願いにも快く引きうけてくれた。2人でAさんのブラウスを近所のブティックに買いに行くとBさんは、まるで自分が服を選ぶように店員さんに色々質問しながら楽しそうに買物をしていた。そして選りすぐり一枚を購入し、Aさんに手渡した。「これを来てお墓参りに行ってね!」とBさんが言うとAさんは本当にうれしそうに「ありがとう!」と言って2人は笑った。
次の日、新品のブラウスを着てメイクまでBさんにしてもらったAさんはお墓に着くと同時にポロポロと泣き始め、「お母さん、なかなか来れなくてごめんね。私はお母さんが嫌いだった。けどこの歳になっていつもお母さんの事を思い出す。毎日仕事に行く時お弁当を作ってくれてありがとう。優しくしてくれて、いつも心配してくれてありがとう」とAさんは数えきれないほどのありがとうを言いながら泣いていた。お母さんは99才で亡くなったらしい。とても厳しく礼儀作法など少しでも悪いと棒で叩かれたり「寝ぞうが悪いとお嫁に行った時に恥をかく」と寝ている時に足を紐で縛られたりしたらしい。残念な事にその後Aさんはバリバリのキャリアウーマンとして働き、一度もお嫁に行く事なくずっとお母さんと2人で暮らし、母親が亡くなった後、施設に入居し一人で94才を迎えた。しかし自分が母親の年令に近づいた今、改めて自分を愛してくれた母親に生きている時に言えなかったありがとうを伝えたかったと言った。「お母さんが死んでずっと寂しかったけど、でも私は孤独じゃないわ」と振り返って笑った。私もうなずき泣きながら笑った。風が穏やかに前髪をくすぐった。
本日も介護びよりなり。
 
佳作

<学生部門>
「お母さんの仕事」

(大阪府 寺野 亮太さん)

ぼくのお母さんは老人ホームで働いています。ぼくも小さい時から何度も何度もお母さんの仕事場に連れていってもらいました。
だから、仕事場の人たちもみんなよく知っています。デイサービスではおじいちゃんとおばあちゃんといっしょに風船でバレーボールをしたり、
小さなボーリングをしたりします。そのときは、力を入れすぎておじいちゃんやおばあちゃんにけがをさせないように気をつけます。
ケアハウスでは食事の時にお茶を配ったりご飯を運んだりのお手伝いをします。おじいちゃんもおばあちゃんもとても喜んでくれるので、ぼくもうれしくなって、もっとお手伝いをしようと思います。
お母さんも、いつもはあまり食べない人が、ぼくがはこぶとたくさん食べるねってびっくりします。仲良くなったおじいちゃんやおばあちゃんもたくさんいて、
僕が行くとお菓子をくれたり、お部屋でいっしょにテレビを見たりします。保育園の時は、おばあちゃんの部屋でお昼ねもしました。
お母さんはとてもいそがしくてぼくの参観日や親子行事にはこれないことが多いです。
お母さんは行けなくてごめんねといいますが、ぼくはちっともいやではありません。
もしも、友だちになんでお前のお母さんはこないのと聞かれたら、
ぼくのお母さんはいっしょうけんめいおじいちゃんとおばあちゃんのおせわをしているから来れないって言います。
お母さんは、真夜中でもしせつから電話があったらすぐに仕事に行きます。そんな時はだれかが急へんのときだとお母さんは言います。
だから、行かなきゃいけないと言います。ぼくもそう思うので、僕のことは心配しなくていいから早く行ってほしいと思います。
ぼくのお母さんは友だちのお母さんやいとこのお母さんにくらべると、とてもいそがしいと思います。
ぼくは働いているお母さんを小さい時から見ていて、働いているお母さんが大好きです。ほかのお母さんよりかっこいいと思います。
ぼくはお母さんのおかげで、たくさんのおじいちゃんとおばあちゃんに会えました。車いすもおせるようになりました。
しわのいっぱいある手をにぎってあげるとわらってくれます。よだれもふいてあげます。お母さんは、きたなくなんてないんだよって言います。
みんないつかは年をとっておじいちゃんやおばあちゃんになるんだよって言います。ぼくもそう思います。
お母さんが年をとっておばあちゃんになったらぼくがめんどうをみてあげます。
だって、ぼくはお母さんからいっぱいだいじなことをおしえてもらったから、ちゃんとみてあげられると思います。
 
奨励賞

<学生部門>
「祖母の通訳者」

(徳島県 土井 美幸さん)

「美幸やで、美幸!」と一回の電話で何度も言う。大きな声で言う。ゆっくりと言う。すると、兄や弟の名前が返ってくる。間違い電話と思われて切られそうになる。必死にそれを引き留める。いつからこんなに自分の声が祖母に伝わらなくなったのだろう。「み」「ゆ」「き」のたった三文字がどうして届かないのだろう。
私が幼かった頃の祖母は、声も大きく、よく話す、一言で表すなら「豪快ばぁちゃん」だった。正直、『ちょっとしゃべりすぎちゃう?』『もう少し静かにしていてほしいなぁ』と思ったこともなくはない。でも、そんな祖母が今は、声も小さく、あまり話さなくなった。あれだけ大きな声で話していた祖母が、別人のようであった。私にはそう感じられるほどの大きな変化だった。その理由は、耳の聞こえが悪くなってしまったことにある。祖母と離れて暮らしているため、会って話すのは帰省をしたときだけ。祖母との会話は、ごくたまにする電話であった。徐々に、祖母の耳が悪くなっていることを、電話で大きな声で何度も名前を繰り返している自分の姿で気づかされた。
ある日、祖母の家に行ったとき、補聴器が机に置かれていた。それを見た私は、少しほっとした。補聴器があれば、祖母も声がよく聞こえるだろうと思った。でも、祖母は一向に補聴器を耳につけようとしない。両親にどうしてつけないのかと聞くと、その補聴器はとても安く、「ガーガー」と機械のような音がし、あまり声が鮮明に聞こえないので、つけるのが煩わしくなってくるのだと言う。それと同時に、祖母は、私の学生生活を支える仕送りを続けるために、高価な補聴器を買わなかったことを知った。
私は、祖母の言った一言が胸に突き刺さっている。「声が聞き取れないから、耳が聞こえから、何度も聞き返すから、みんな何も話してくれなくなった。だからなにも分からない。」そう言った祖母の顔があまりにも弱々しかった。そこに、「豪快ばぁちゃん」の姿はなかった。耳が聞こえにくいということは、外の世界との隔たりを感じてしまうことなのではないかと思った。みんながなぜ笑っているのか分からない、常に一人でいるような孤独感がある。そんな祖母の苦しさを知った今、私は、私のために「聞こえないまま」という選択をした祖母の通訳者になりたい。常に横にいることはできない。高価な補聴器を買ってあげることも今はできない。大したことは何もできない。でも、少なくとも帰ったときだけは、会いに行って元気な顔を見せようと思う。何度聞き返されても、優しく笑って何度でも応えようと思う。難しいことを話すときは、紙と鉛筆も使おうと思う。手でジェスチャーをしたり、表情も変えながら、私の気持ちがより伝わるようにしようと思う。たくさん外の世界のことを伝えてあげようと思う。伝わるまで、伝え続けていこうと思う。
 
奨励賞

<学生部門>
「特技欄は介護」

(愛知県 水野 泰杜さん)

あの、茶色の手形だらけのトイレは、忘れられない。祖父の「タイトー」と僕を呼ぶ声に、姉と二人で駆け付けたトイレは、惨状としか言えなかった。
少し前から、両親が頭を悩ませていたのはうすうす感じていた。家だけでなく、出かけた先でもいろいろあって、でもまさか、僕たちだけの時にこんなことになるとは、思ってもいなかった。
こういうとき、姉の決断は早い。姉はトイレを、僕は祖父を、二人で手分けしてなんとかすることにした。
祖父を風呂場に連れて行き、まずはドロドロの手を洗う。爪の間まで、丁寧に洗う。それから服を脱がせ、下半身を綺麗にする。着ていた服は汚れをざっと落として、洗剤につける。風呂場を綺麗にして換気扇をかける。
トイレは一筋縄ではいかなかったらしい。なんとかしようと奮闘した分、凄まじいことになっている。便器はもちろん、ペーパーホルダーの隙間、手すりの裏、汚れは細かいところにこびりつき、入り込んでいる。雑巾から歯ブラシ、綿棒まで、道具を駆使して隙間の汚れを掻き出したのは、武勇伝と言ってもいいと思う。
予想だにしていなかったから、手袋もマスクも見つからなくて、無我夢中で片付けた。僕ら
がやらなきゃ誰もやらない。嫌だとか考える前に、いざとなったら体は動くものだなあと、我ながら感心した。達成感というか、不思議な高揚感というか、「今だったら何でもできる。どんと来い」みたいな気持ちになったのは、自分でも面白かった。
それは姉も同じような気持ちだったのだろう。ちょうど就職活動の時期だった姉は、エントリーシートの特技欄に、堂々と「トイレ掃除」と書き、面接ではその話題で盛り上がったらしい。無事就職を決めた姉は、こちらも武勇伝だろう。
他にも困ったことを連発した祖父は、アルツハイマーの診断を受けた。家族として困っていたのは、祖父が物事の処理が今まで通りできないことだった。祖父が自分で何とかしようとして、後始末に手こずることが一番の問題だった。
ありがたいことに、診断を素直に受け入れた祖父は、できないことは仕方ないということも受け入れてくれた。そして、自分でやろうとせずに、アウトソーシングしてくれるようになった。できなくなったことは、誰かを呼んで任せれば大丈夫。トイレに行きたくなれば「おーい。」パンツが漏れても「おーい」
最近は、頭よりも手足の方がより動かなくなり、立ち上がることができない。トイレの介助で祖父を抱えながら、「吊り出しでタイト関の勝ち」とか言うと、にっこり笑ってありがとねと言ってくれる。リハビリパンツを下げるのも、下げてもらうのも当たり前の毎日になり、もうトイレを派手に汚すこともない。
僕も間もなく、就職活動の時期を迎える。準備と言ってもよくわからないけれど、まずは、姉にならって特技欄に「介護」って書いていいですか?

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