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広報・情報・資料

介護作文・フォトコンテスト

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平成27年度(第8回)受賞作品一覧

過去の受賞作品はこちら

写真

最優秀賞

「うんとこしょ!どっこいしょ!」

(岩手県 田村 麻衣さん)

 
優秀賞

「水分補給と笑顔補給、満タン!」

(愛媛県 津田 治さん)

優秀賞

「おっかねぇ」

(岩手県 小井田 望さん)

 
入選
「大きいのとったど〜」

(山形県 佐藤 こず恵さん)

入選
「私が育てた 天使の輪」

(広島県 中川 慎也さん)

入選
「いざゆかん!シャーロットを求めて」

(大分県 佐々木 泉さん)

 
入選
「赤い刺激に思わず…」

(兵庫県 宮崎 文哉さん)

入選
「みんな自分ルール」

(千葉県 三嶋 香南子さん)

入選
「もう、とうちゃん大好き!」

(青森県 白浜 みゆきさん)

 
入選
「同期の桜」

(愛知県 吉田 健さん)

入選
「この道、手を繋いで歩くのは40年ぶりだね」

(茨城県 関根 友香さん)

入選
「世代を超えてつなぐ」

(兵庫県 坂本 尚之さん)

 
入選
「仲良し夫婦」

(岡山県 小池 真包さん)

入選
「満開〜いつまでも変わらない〜」

(新潟県 郷戸 恵さん)

入選
「頑張る子」

(三重県 中世古 健吾さん)

 
入選
「若い時、来たの覚えてる?・・・覚えてない」

(鹿児島県 中村 亮さん)

入選
「時代(とき)を越えたメロディー」

(京都府 ヘンキ アプリドナルトマスさん)

入選
「ほぉ〜ら食べてみな!」

(栃木県 伊藤 陽平さん)

 
入選
「美味しくなぁれ」

(北海道 宮西 志乃舞さん)

入選
「さぁ、行くよ。出発・進行」

(岩手県 柴田 明美さん)

入選
「菖蒲で勝負」

(福岡県 福島 健太さん)

 
入選
「今年もきれいに咲いたね」

(新潟県 中村 千紘さん)

入選
「お帰り〜をカシャーッ!」

(京都府 木嵜 敏清さん)

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作文

最優秀賞

<一般部門>
「1歳の介護士は3代目」

(兵庫県 山下 茂さん)

介護の世界でダブルケアという言葉が注目を集めるようになりました。ダブルケアとは、介護と子育ての同時進行している状況を表現しています。我が家でも、二〇〇九年から同時進行がスタートしました。
ダブルケアといっても、各家庭において状況は異なり、要介護者の身体状況や家族構成によっても負担感は変わってきます。ダブルケア中において、子どもの年齢によっても影響が変わってきます。我が家の場合、介護が必要になってから妻の父を呼び寄せての介護が始まりました。義父はすでに寝たきりで医療行為も必要な状態でした。その二年後に妻が妊娠。妊娠中も自宅での介護を続けながらの日々でした。
長男が生まれ、介護と子育ての同時進行がスタートしましたが、子どもが小さいうちは大変なことも多かったです。子育てに慣れていないこともあり、目を離した隙にベッド下に潜り込んだり、車いすに頭をぶつけたりの日々でした。大変なこともありましたが、介護と育児が融合しているからこそ見えてくる場面も多くありました。
一歳になったばかりの長男が、おじいちゃんの車いすを意識的に押そうとしたり、私たちの介護場面を見て、食事介助を手伝ってくれる日もありました。まだ言葉も話せない小さな子が、表情でおじいちゃんと会話をしている姿を見ていると、一歳の介護士がいてくれて頼もしいと何度も救われました。気持ち的な介護負担も軽減されました。本当に楽しい日々でした。
あれから六年。今もダブルケアは続いています。変化といえば、我が家の介護士が三人になったことです。保育所から帰ってくると、真っ先にじぃじのベッドに向かう三兄弟。
「ただいま〜。今日なぁ。学校でな、逆上がりできてん。じぃじは、どうやった? しんどかった? 病院は?」
と、次男が息をつく間もなく喋り続けています。隣では、一歳の三男がベッド柵で遊んでいて、長男が「ここ、危ないから触ったらあかんで」とお兄ちゃんぶりを発揮しています。介護士の先輩として、後輩に指導しているようです。じぃじと息子たちが一緒に過ごす光景を眺めていると、介護も子育ても区別しようがなく、互いの境界が曖昧なことに気付かされます。
我が家のダブルケアがどこまで続くのかは不透明ですが、できることならば、長く三世代同居を続けていきたいです。
三代目の一歳の介護士は、只今修行中ですから。
 
優秀賞

<一般部門>
「祖母とあんパン」

(熊本県 石口 三香子さん)

「お祖母ちゃんおはよう。今日も1日見守っていてね。」私の朝は、祖母の写真に手を合わせることから始まる。
祖母は小さい頃から私の事を、大変可愛がってくれた。母に叱られた時、兄にいじめられた時、いつも私を抱きしめてくれた。温かくて柔らかいその腕の中は何処よりも心地良い場所だった。
「はい、これ。お祖母ちゃんの分ね。」私が小さい頃から、あんパンを食べる時、祖母は大好きなあんこ、私が周りのパン。いつもこうして二人で可笑しな分け方をして食べていた。 私が就職してしばらくすると、少しずつ祖母の物忘れが目立ってきた。そして、料理上手の祖母が鍋を焦がした。次の日も、その次の日も……。タワシで焦げた鍋を擦る後ろ姿を見て、私は少し不安になった。何かおかしい。いつものお祖母ちゃんじゃない。もしかして……。その不安は祖母の一言で確信に変わった。
「今日はご飯の遅かね。」さっき食べたはずなのに。ニコニコ笑って美味しいねって言って食べていたのに。きっと認知症だ。そう思わずにはいられなかった。ご飯を食べていないと怒り始めた祖母の所に、あんパンを持って行った。
「お祖母ちゃん、ご飯が出来るまでこれを一緒に食べようか。」あんパンを手渡すと、祖母は周りのパンを剥いで、私に手渡してくれた。
「みかちゃんは、周りのパンが好いとるもんね。」いつもの優しい祖母だ。私達のあんパンの食べ方、覚えていてくれたんだ。その時のパンは余計に美味しく感じた。
祖母は段々と外出しなくなり、料理もしなくなり、怒ることが多くなっていった。以前の祖母とは別人のように思えた。
私が結婚すると、なかなか祖母に会いに行けなくなってしまった。それでも仕事が休みの時はよく祖母に会いに行った。そして真っ先に祖母を抱きしめた。温かくて柔らかい。
「みかちゃんが来るとば、待っとったよ。」そう言って小さな箱を渡してくれた。中身は1つだけ食べられている和菓子の詰め合わせだった。
「1つ食べたら美味しかったけん、みかちゃんに取っとったとよ。はよ食べんね。」祖母は私を喜ばせようと、自分も大好きなはずの和菓子を大事に取っておいてくれた。
私は何を見ていたのだろう。祖母は何も変わっていない。自分のことより、いつも私のことを考えてくれる。掃除をお願いすると、母や私よりピカピカにしてくれる。洗濯物だって1枚1枚丁寧に畳んでくれる。料理の味付けをすることは難しくなったが、食材を切るのはとても上手。どうして出来なくなったことばかりに目が行ってしまったのだろう。出来ることがこんなに沢山残されているじゃないか。何より祖母の優しさはずっと変わらないじゃないか。
祖母は最期まで優しく、私や家族の心配をしてくれた。
お祖母ちゃん、お祖母ちゃんが天国へ行って四年経つけど、今も私はあんパンを食べる時、あんことパンに分けてしまうよ。周りの人が見たら笑うかな。でもね、私はこれでいいんだ。ずっとこの食べ方でいいんだよ。
 
優秀賞

<一般部門>
「妻とともに」

(三重県 村尾 徹也さん)

七十六歳の私は、夜中一人、仏壇前で泣いた。声をあげていつまでも泣いた。七十二歳の妻が可哀想で仕方ない。私より何倍もつらいはずなのに、優しい笑顔を絶やさない。私に気遣っているのがよく分かる。笑顔で努力した分、隠れて何倍も泣いているはずだ。
五年前の秋、妻が小脳内出血で倒れて、支えなしで立てない生活が続いている。退院後は、デイサービスと訪問リハビリ。私たち二人は歩けることに望みをかけた。スクワット、腰ひねり、椅子からの立ち座り、腰支えの歩き。病院で療法士のリハビリをしっかり見てきた私は要領がよかった。必ず歩けるようになる、妻へ言葉をかけ続けた。私は妻が歩けるようになることを信じて疑わなかった。
「昔のように、山に登ろう。」私の話しかけに妻が頼りない表情で微笑む。妻が倒れるまでは、囲碁三昧で、三つの囲碁会に属し、帰宅はいつも夕方だった。今は掃除、洗濯、食事、すべてが私の役割だ。糖尿病の妻の食事にはずいぶん気を遣う。遠くに住んでいる次女が半年ぶりに訪れたとき、言った。
「お父さんも、好きだった囲碁でもやったら? お父さんも元気でないと……。」私が元気でないと、お母さんも困るというのだ。
私は、妻を残して外に出ない。いつもそばにいる。そばにいてやらねば、何もできない。妻の世話をつらいと思ったことなど一度たりともない。それどころか一緒にいることが一番楽しいのだ。昔の海外生活の話をしたり、デイケアの話を聞いたり……。歩けないけれど、話はできる。話ができなかったら、どんなにつらかろうと思う。会話のできる私たちは、いつも歩けるようになった時のことを話す。妻は車椅子を家の中でも離せない。寝ているか、車椅子か、そんな妻を思うと、私が家に縛られていることなど、何でもないことだ。私には、妻の幸江を歩けるようにしたいという夢があった。幸江がデイケアで風呂に入った日でも、家で一緒に風呂に入る。風呂で足を揉み、手指を揉む。そして、大声で歌う。手足のしびれをとり、発声で音声を直したいと考えたからだ。晴れの日は、外に出る。車椅子を車に乗せ、川辺の公園へ向かう。ベンチがあって、板場の休憩所があって、春には桜並木やタンポポが広がる。幸江の好きな場所だ。弁当持ちで、そこで穏やかな時を過ごす。もちろん、そこでも腰を支えて、歩行練習に励むのだった。
こうして、幸江との二人三脚が続いた。娘たちは会う度に、お母さんはしっかりして来たと言ってくれる。しかし、長い年月が経っても、支え無しには立ち続けることは無理だった。五年前、脳外科主治医の、春になったら歩けますよ、は空しい言葉に終わった。私は、同じ病室患者の「諦めた時が、終わりなんです。」という言葉をかみしめている。
今年のデイケアの新年の書き初めに、幸江は美しい筆字で、こう書いていた。
「冬の後には、必ず春が来る」
 
入選

<一般部門>
「母の感謝は涙と笑顔」

(新潟県 大平 和征さん)

93歳の1人暮らしの母が、隣町のユニット型個室の特別養護老人ホーム(以下「ホーム」)へ入所させていただきました。ホームに入所される方々は、ほとんどが「終の棲家」になります。入所時に「看取り」のお願いも致しました。私の家族や姉妹弟も時々訪問して、母は落ち着いた余生を送っていました。
入所三年目の96歳。年齢とともに、眠っている時間が多く、声を掛けても反応は鈍く、会話はできなくなり、母自身の意思表示も難しいようで、日に日に衰えが目に見えてきました。
五月初旬、看護師から「大分弱ってきています。」と言われました。五月二十四日に「症状から見て、長くないと思われます。」と電話があり、すぐに家族で駆けつけました。母は死を待つのみと分かっていても、1日でも長く生きてほしいと元気づけました。五月二十七日、この日は父の祥月命日。「父が母を迎えに来るかな?」と思いつつ、この世最後となる母と二人だけの個室、ベッド脇で母の小さな寝息が途絶えないように、神経を集中して一夜を過ごしました。翌五月二十八日朝、母の間近な死期の準備で、40分離れた自宅へ帰りました。着いた途端に「今日一日は持たないと思います。」と電話があり、すぐに引き返しました。個室に入りますと、四、五名の看護師や介護職員が、母の名前を連呼しながら「頑張れ! 頑張れ!」と、必死に励ましてくれていました。看護師から「顎で息をはじめましたので、もう時間がありません。」と言われました。74歳の私は母のベッド脇にしゃがみ込んで、「母ちゃん! 良く頑張って96歳まで生きたね。ありがとうね!」と、母に小さく声を掛けました。すると、死を目前に全く反応がなかった母の閉じた両目から、小さな小粒の涙がポロポロと流れはじめました。そしてニコッと笑ってから息を引き取りました。母の小さな涙と笑顔を必死にカメラにおさめました。ベッドを囲んで励ましてくれた職員の方々も、一緒になって悲しみ、涙を流してくれました。看護師に「全く反応がない母でしたが小さな涙を流し、ニコッと笑ってくれました。母の涙と笑顔は、子どもの私と皆さんの優しい介護に対する感謝の気持ちだと思います。父も亡くなる寸前にニコッと笑い、言葉を掛けると頷いてくれました。父母ともに最後に笑顔で逝き、私は大変幸せ者です。」と、安らかな母の死に顔を見ながら、感謝を込めて御礼を申し上げました。看護師は「何も表情がなくても、全部分かっているのです。」と教えてくれました。母はこのホームに三年余、96年の人生最後を看取っていただき、喜んだと思いますし、私どもも自宅介護はとても無理であり、本当に助かりました。「野辺送り」には、遠方から担当職員が駆けつけてくださいまして、遠巻きにソッと手を合わせて見送ってくれました。ホームの皆さん、ありがとうございました。
 
入選

<一般部門>
「両親からのプレゼント」

(北海道 冨士原 理恵さん)

私にはもう両親がいない。私が結婚して間もなく両親が離婚した。その数年後、両親二人に相次いで病気がみつかった。
私が一人目の子供を妊娠している時、父に胃ガンがみつかった。ステージVだった。その入院中、難病もみつかった。頼る母もおらず、初めての妊娠中に起きた父の入院。週に数日お見舞いに通い続け、胃の摘出手術にも立ち会った。その時の気持ちは、今でもはっきり覚えている。この悲しみは私の心の中だけで受け止めよう、決してお腹の子供には伝わらないようにしよう、と。そして出産。同時に父も退院し、育児と介護のダブルケアが始まった。胃を全摘した上に糖尿病も併発していた父の食事は、カロリーと栄養バランスに気を付け、一日五食から、というものだった。初めての育児と介護、一番頼りたい母がいないことのストレスで押しつぶされそうな時、父が親戚に買ってきてもらったお菓子を食べているのを見て、腹立たしさでいっぱいになった。なりたくて病気になった訳ではない父の無念さを思いながらも、優しくしてあげたいのに冷たい言葉を吐いてしまう自分を責めたりもした。そんな生活が続く中、二人目の子供を流産してしまった。小さい頃から不仲だった両親を憎んだこともあったが、自分も親となり、それぞれの苦悩を少しは理解できるようになって親孝行をしようと努めているのに、なぜこんなに辛いことばかり起きるのかと、誰にもぶつけることのできない悔しさに涙した夜もあった。でも、一日中家にいる父に、「ちょっと子供を見ててね。」と数分の間買物に行って帰ってくると、まだ歩けない孫がチラシをぐちゃぐちゃに散らかすのを優しい目でみつめている父の姿があった。介護の日々の中、そんな小さな幸せを感じる余裕もできた頃、又妊娠がわかった。その頃、父は難病が悪化し、歩行もままならなくなっていた。出産が近付くと父は高齢者マンションに住むことを希望した。今思うと、出産間近の娘に迷惑をかけたくないという、無口な父の親心だったのではないだろうか。
父が家を出て一ヶ月後、母が脳梗塞で倒れた。又手術に立ち会った。麻酔で眠っている母を見て、一人過ごす母の淋しさはどれだけだったろうと思うと涙が止まらなかった。父の介護と育児を理由になかなか会いに行けずごめんねと、心の中でつぶやいた。出産ギリギリまで母のお見舞いに通い、無事出産。産後は、小さな子供を二人連れて、できるだけ二人に会いに行った。よその子は祖父母に甘えたり、プレゼントをもらったりしているのに、うちの子供達は病院をはしごし、車いすを押し、話すことも難しくなった二人に話しかける日々を過ごしている。ある日、4歳の長男に、「病院ばっかりでごめんね。」と言うと「いいよ、じいちゃんもばあちゃんもかわいいから。」と笑顔で言った。
両親が亡くなった今、時々思う。両親からの私と子供達への最高のプレゼントは、介護の日々がくれた“優しい気持ち”なのではないかと。
 
入選

<一般部門>
「家族になるということ」

(福島県 荒川 早苗さん)

私が結婚を決めたのは、彼の祖父母に対する愛情に心打たれたからである。
彼の家は彼・両親・祖父母の三世代同居の家庭だった。デート帰りに、もう少し一緒にいたいと思っていた私に、彼はこう言った。
「今日はじぃさんがいなくて、ばぁが二階で一人だから隣の部屋の俺はできるだけ早く帰らないと……。」
彼の祖母は認知症を患い、家族で自宅介護をしていた。核家族に育った私は自宅介護ということは考えたこともなかった。介護が必要になったら施設に行くものだと思っていたからだ。だから、彼の家庭をとても素晴らしく感じた。しかも、率先してそれに協力している彼の姿に温かい家庭を見たのだ。
しかし、結婚し彼の家に同居してみて、その介護の大変さに驚いた。中でも、昼間は両親も私達夫婦も仕事で家を空けるため89歳の祖父が一人で祖母の介護をしているということだった。比較的軽い認知症とはいえ、祖父の祖母への介護には頭が下がる思いだ。病気の為、少し前の出来事すらも忘れてしまう祖母。
「玄関の鍵はしまっている?」
「お味噌汁は煮た?」
「まだ帰ってこないね。」
これらは一日何度も繰り返すキーワードだ。家族や家のことを心配するあまり何度も尋ねてしまう祖母の発言なのだ。しかし同じことを何十回も答える祖父はそれだけでも大変なのに、祖母の健康や身の回りの世話まで献身的に支え介護している。
縁あってこの家に嫁に来たのだ。こんな私にも何かできることはないだろうか? 日々そう考えるのだが、何かしようと思っても介護について身体が染みついていないからか、なかなか行動に移せない。こういう時はきっとこうだと頭で描く介護の姿はあっても、身体は動かないまま。結局は祖父に頼り切ってしまう状態となっていた。
そんな私を見るに見かねた主人は、
「介護だと思って、そんなに頑張らなくてもいいんじゃない? 普通に接してればいいんだよ。」
と言ってくれた。
それからというもの、祖母を認知症だと意識しなくなった。全くといっていいほどの普通の会話をした。そのほうが私らしいし、私でも簡単にできることだったからだ。 「天気いいね」「寒くない?」「帰ってきたよ」等という日常的な言葉を祖母にかける。すると、祖母は笑顔で答えてくれる。何かを手伝ってあげたときは、必ず「どうもすみません」「ありがとう」と言ってくれる。そういう祖母がとても可愛らしかった。
そうしてここで暮らし始めて一年。
「早苗ちゃん、これ良いの?」
私は、とても驚いた。同時に嬉しくて涙が出そうになった。祖母が初めて私の名前を呼んでくれたのだ。祖母が認知症になってから嫁いできた私は、当然、名前など覚えてもらえないものだと思っていた。でも、そうではなかった。主人の言う通り、ただ普通に接して一緒にいる……それだけなのに、私の気持ちが祖母になんとなく伝わったのかもしれない。
また今日も、介護らしい介護はできない私だけど、祖母の笑顔が見たいと思って、話しかける。
 
佳作

<学生部門>
「祖母と私と田んぼ道」

(栃木県 小沢 一世さん)

実家に帰省すると、必ずばあちゃんと散歩する。
「お米のいい匂いがするね」
「稲穂の匂いがわかるかい」
「あったりまえじゃん。」
小さい頃は田仕事へ向かうばあちゃんに手を引かれて、しょっちゅう田んぼへ行っていた。今は私がばあちゃんの手を引き、田んぼへと向かう。
「こないだの雨で、稲が倒れてないかい?」
「あー、手前の方が倒れてる。……見える?」
立ち止まって隣を見ると、ばあちゃんは目を細め、空を仰いでいた。視線を下へゆっくりおろし、周りを見渡す。眉間のシワが深くなっていく。数秒後、その顔がふっと緩んだ。
「……あぁ、やっと見えた。これじゃあ刈るのが大変だねぇ」
ばあちゃんの眼には、ごく小さな範囲の景色しか映らない。一人で家の敷地から出られなくなって、もう三年になろうか。最近は、自宅や庭ですら自分がどこにいるか見失うことがあるという。
散歩から帰ると、ばあちゃんは「今日は奥の田んぼまで連れてってもらったよ。」と嬉しそうに私の母へ報告する。その姿を見て、こちらまで嬉しくなる。
ばあちゃんとの散歩は、私にとってかけがえのない時間だ。ほっと一息つける時間であると同時に、自分の夢の原点をいつも思い出させてくれる。
私は小さい頃から医師になりたかった。念願かなって今、医学部に通っている。
医学生の生活は甘くない。寸暇を惜しんで、勉強に部活にバイトに励む。仲間を見ても、それは当たり前のことで、みんな息つく間もなく様々な活動に取り組んでいる。その中にいると、時折休み方がわからなくなる。そうこうしているうちに、余裕がなくなって、目標を見失ったり、言動から思いやりが消えたりしてしまう。
ばあちゃんとの散歩は、先走る私の時計を本来の速さに戻してくれる。
「こんなにゆっくりじゃ、お前の運動にならないだろう」
ばあちゃんはいつも言う。でも、それでいいのだ。私は、ばあちゃんとの散歩で楽な呼吸の仕方を思い出す。ばあちゃんの笑顔で、「みんなを元気にしたい」という思いを取り戻す。
小さい頃、お風呂で「おくすり」を作った。静脈瘤でぼこぼこになったばあちゃんの脚を治すための特製の薬だ。効くわけのない、お湯と入浴剤と石鹸でできたそれを、ばあちゃんはいつも「これをつけるとラクになるねぇ。ありがとう」と言いながら使ってくれた。私の夢の原点は、多分あの時のばあちゃんの笑顔にある。
医学を学ぶほど、医学では取り除けない苦しみの多さを実感する。治せないならせめて、私はその人の心に寄り添っていたい。病気があっても、元気に生きられる手助けがしたい。そのためには、精一杯勉強し続けるのはもちろん、いつも心にゆとりがあることが大切だと思う。
ずっと大学にいると、ゆとりを保てないときがある。そんな時は、白いご飯をおなかいっぱい食べる。ばあちゃんと見に行った、あの田んぼのお米だ。父と母とばあちゃんが作ったお米を食べて、今日も私は医学と向き合う。
 
奨励賞

<学生部門>
「少しのゆう気でみんな元気になった」

(千葉県 坂倉 史音さん)

ぼくのお母さんはデイサービスでみんようの歌やしゃみ線をひくボランティアをしています。少し前に、ぼくはお母さんが歌っているのを見に行きました。ぼくもお母さんのえんそうのお手つだいをしたいと思っていたからです。ぼくは、しゃみ線が少しひけるので、はじめははずかしかったけど、ゆう気を出してお母さんのしゃみ線のえんそうのお手つだいをすることにしました。
できるだけうまくひいて、おじいちゃんやおばあちゃんがよろこんでくれるといいなと思いました。ぼくがえんそうしているとみんな手びょうしをしながらいっしょに歌ってくれました。
思いきって、つぎは歌を歌ってみました。こんどはさらによろこんでくれたのでぼくはもっとうれしくなりました。
つぎにデイサービスに行った時には、たなばたのたんざくに、
「しおんくんにまたあえますように。」
と書いてあったので、すごくうれしかったです。ぼくはよいことをしたのかなと思い、心がうれしいなとかんじました。
ぼくはおじいちゃんやおばあちゃんのよろこぶかおが見たくて、また歌やしゃみ線をひいたりしたいと思いました。そのあと、今年の夏休みには五回ボランティアをすることができました。
ぼくのしゃみ線や歌でおじいちゃんやおばあちゃんがもっと元気になってくれた時、ぼくももっと元気になりました。
少しゆう気を出したら、みんなもぼくも元気になったのでこれからもゆう気を出して、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
 
奨励賞

<学生部門>
「ぼくのデイサービスの思い出」

(愛知県 田中 蒼一郎さん)

ぼくは、小学六年生です。お母さんがはたらいているデイサービスについて行きます。そこに行ってする、ぼくにとっての楽しい事があります。それは、吉田さんというおじいちゃんと将棋をすることです。
ぼくが将棋を始めたきっかけは、ひいおじいちゃんが将棋が好きだったのでいっしょに将棋ができたらいいなと思ったことです。始めた頃は、お父さんやおじいちゃん、ひいおじいちゃんと将棋をしていました。少し出来る様になった頃にデイサービスで、
「よかったら吉田さんていう人と将棋をしてみない?」
と言われました。ぼくはそれで吉田さんと将棋をしました。吉田さんは、手加減をしなかったのでぼくは負けてばっかりでした。ですが負けたくなかったのでがんばってやっていくうちに吉田さんに勝てる事ができるようになりました。そして、学校の将棋クラブで勝てなかった子にも勝って優勝する事が出来ました。もっと強くなるために将棋教室に見学にいったら、そこの先生に、
「強いね、どこかで習っているの?」
と聞かれたので、
「デイサービスの吉田さんです。」
と答えました。ぼくは吉田さんのおかげでいつの間にか強くなっていたみたいです。吉田さんにありがとうございますといいたい気持ちです。最近はデイサービスに行くと吉田さんがぼくに気づいて、将棋をするのを待ってくれているのがうれしいです。ぼくと吉田さんは将棋をお願いしますと言う時と最初のじゃんけんしか話しません。最近は田中くんとちゃんと名前を覚えてくれていたのを知り、ちょっとうれしかったです。
デイサービスでぼくが印象に残っている事がもう一つあります。クリスマス会でぼくがみんなの前でマジックをすることになっていました。トランプとステッキをやるので練習して本番にのぞみました。一つ目のトランプはうまくいって利用者さんがはく手をおくってくれました。ですが二つ目のステッキがうまくいかなかった時におじいちゃん、おばあちゃんが、
「がんばれ。」
と言ってくれました。ぼくはそれを聞いてがんばってやって成功させました。その時のはく手は今も忘れません。
ぼくは、デイサービスに行き、いっしょにゲームをしたり、話をしたりして色々な楽しい事がありました。ぼくはこれからもデイサービスで手伝えることをしていきたいです。

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