介護作文・フォトコンテスト
平成22年度(第3回)受賞作品一覧
写真


「盆踊り」
(千葉県 江口 亜由美さん)


「共に支え合い」
(福井県 山田 陽子さん)


「今日は本気」
(鹿児島県 久保田 淳治さん)


「若返ったわよ♪」
(北海道 三並 寿子さん)


「103歳。長生きの秘訣は?」
(千葉県 森 多恵子さん)


「会おうごたった〜。」
(熊本県 宮崎 孝人さん)
作文

「富士山の絵」
(東京都 札場 笑美子さん)
買い物から帰ってきてそれを見つけた私は、思わず立ち竦み、しばらくその場から動くことが出来ませんでした。──それから父の「認知症」は、坂道を転がるように急激に悪化して行ったのです。
父の認知症がまだ軽い時は、「もう一度風呂屋の看板を描くぞ」などと、父はよく息巻いていたものでした。父の仕事はお風呂屋の看板描きでしたが、それももう何十年も昔に辞めていましたから、父の描いた風呂屋の看板がどこかに残っているはずもありません。
でも私は父の看板絵が好きでした。父が描いた富士山と三保の松原を眺めて風呂に入るのが好きでした。三保の松原に寄せる波が、浴場に飛び込んでくるようでした。昔はよく父が描いた看板があるお風呂屋さんへ入りに行ったものです。
この富士山の絵は、男湯のほうは一体どういう風になっているのかと、私は背伸びをして男湯を覗きました。──しばらくして、この風呂屋には男湯を覗く痴女が出没するという噂が流れたりしましたっけ。
いずれにしろ、父はもう風呂屋の看板を描くことなど出来ないのだなあ、そんな感慨にふけりながら、食事を自分でしなくなってしまった父に 向かって「ハーイ口を開けて」という生活が始まったのでした。そして、歩かなくなった父のために車椅子を借りました。お風呂には私が洋服を着たまま一緒に 入って洗ってあげました。ついにオムツをする生活になりました。一日に何度もオムツを換えました。そんなこんなで父の大きな体を抱くことが続き、私の体と 神経は次第に悲鳴をあげていったのでした。
それを助けてくれたのが施設の方々でした。
いまでは父はショートステイで毎月十日間ほど施設にお伺いしています。驚いたことに。父はまたひとりで食事をするようになりました。きっ と、施設の方に励まされたり、ショートステイに来ていらっしゃる他の人に負けてなるものかと思ったのでしょう。おまけに、施設の方の介護つきですが、用を 足しにトイレまで歩いて行くようになりました。
半年ほど経ったそんなある日、いつものショートステイから父はなにやら大きな紙を抱いて帰ってきました。施設の方がおっしゃるには、みんなで絵を描く時間があって、その作品だそうでした。広げてみると、富士山の絵でした──私は少し泣きました。
いま家の風呂場の壁には、父の描いた富士山の絵が飾られています。三保の松原に寄せる波しぶきが、入浴している私まで飛んできそうな絵です。私が男湯のほうを覗かなくてもすむ、家族専用の素敵な富士山です。

「『無限の力』を、ありがとう」
(石川県 神馬 せつをさん)
新聞配達の仕事も決して楽ではないが、激しい交通事故に遭って六年余の入院と介護サービスを受ける生活を余儀なくされ、否応なく社会からリストラされた私には、社会復帰してもういちど働けるというだけで幸せな気分になる。
それは、紅葉狩りの帰りだった。赤信号で停車していたところに、居眠り運転のダンプカーが追突し、家族が乗っていた自家用車はペシャンコに踏み潰されてしまった。
救急車に乗せられた私が意識を回復したのは、事故から六か月後のことだった。 複雑骨折した肋骨が喉からとびだし、手足の関節はバラバラで、小さな会社の社長としての仕事どころか、人間としての再起さえ不能の状態に陥ってしまった。
私ひとりだけが生還したことによる心の痛みは癒しようもなく、度重なる検査や手術による肉体的な痛みが加わり、独感や絶望感から逃れるため、愚かな自傷行為を繰り返すという体たらくだった。 そんなある日のこと。療養施設の深夜の廊下から、優しげな歌声が聞こえてきた。
♪この坂を越えたなら
♪幸せが待っている
そこには、私たち患者の洗濯や糞尿の処理までを手伝ってくださる介護サービス会社から派遣されたヘルパーさんの姿があった。
毎日毎日、ただ死ぬことだけを考えていた私の背筋に激しい衝撃が走り、思わず頭を下げていた。
そんなヘルパーさんの、見えないところでも努力をされている姿を目撃してからは、治療にもリハビリにも真摯な気持ちで取り組めるようになり、なんとか六年余の介護生活を卒業することが出来た。
リハビリを兼ねて始めた新聞配達の仕事に疲れ切れて挫折しそうになったときには、そのヘルパーさんの姿が脳裏をよぎる。
ご主人を亡くし、三人の子供を育てるために介護サービス会社に所属して夜勤の仕事に就き、「これが私の天職ですから」と笑顔で話してくれたその女性ヘルパーさんは、退院する私の肩をポンと叩きながら、こう話してくださった。
「人間の知恵や技能は無限です。たとえ障害を持つことになっても、人間には無限の力が備わっています。どうか、ご自分に出来る仕事を、心を込めて続けていってくださいね。せっかく生かされた命なのですから」と。
人間らしく生きることは本当に大変なことだ。しかし、あのときのヘルパーさんの笑顔と「無限の力」を信じて、ゆっくりと着実に歩いて行きたいと思っている。

「Nさんの宝物」
(東京都 奥山 マサヲさん)
Nさんは90歳代の女性で年齢相応に認知症はあるももの、独自の信念を貫いていられるような雰囲気の方でした。まず「語り」と「聴き取り」のコミュニケーションに応じてもらえるかと、一抹の不安はあったのですが、果たして、昔の話はしたくない、思い出したくないと、強い拒否が続きました。きっかけをつかもうにも、警戒心が非常に強く、表情は硬く、何を話してもダンマリを決め込まれました。ご家族には、何でも協力するからぜひ完成させて欲しいというものでした。そこで、Nさんのプライドを傷つけないで話をすることのできる場所をさがして、聴き取りを試みることにしました。誰もいなくなった食堂の片隅や、誰も乗っていないエレベーターの中などで、興味をもってもらえるような話題から聴き取りを始めました。初めは無視をされましたが、回を重ねるうちに少しずつコミュニケーションがとれるようになってゆきました。Nさんは徐々に心をひらいて自ら話すようになりました。「あなたも大変だね」と言って、私をねぎらってくれるようにもなりました。Nさんの頑なだった態度は和らぎ、表情は明るく、笑顔もみられるようになってゆきました。特に印象深かったことは、子育ての場面で、まるで昨日のことのように、目を輝かせて、とても嬉しそうに話してくれたことです。そして遂に、幼少時からの生涯を、文章・写真・イラストで綴ったライフレビューブックが完成しました。
完成したブックをNさんに手渡すと、目に涙を浮かべながら「これは、私の宝物です」と、大事そうに胸に抱かれました。それからのNさんは、意欲的に毎日を過ごされるようになりました。あるとき、夜勤者が起床時に訪室すると、ベッド上でブックを開きながら「私はこんなに頑張って生きてきたんだねー」としみじみ自分に語りかけていたことがあったそうです。またあるときは白髪を黒髪にそめられ、若々しくなられその変身ぶりに驚かされたこともありました。その他にも楽しいエピソードは、数知れません。
ライフレビューブックの完成から一年後、Nさんはご家族と職員に見守られながら安らかに天寿をまっとうされました。その後、ご家族から丁度よい時期に本を作ってもらい、「いつでも母に会える気がして癒されています」、とのお話をうかがいました。Nさんの宝物は、今ではご家族の宝物となって、しっかり引き継がれているようです。